おそらく、初めて読む。
中学・高校の時に何ページかはめくったかもしれないが、読み通していないのは確実。
「武者小路実篤」~名前はおそらくこの本で知った。巻末の写真の謹厳なおじさん(失礼)といった雰囲気の映像は、その時に焼きついたもの。その後、野菜を描き、揮毫の書かれた色紙を見たような気がするが、それもこの本の巻末に載せてあるものだったのかもしれない。
野菜の色紙を揮毫する文筆家、といったイメージだったが、調べてみれば理想郷を目指して戦前(大正時代)に「新しき村」を興した、とある。へぇ~、そんな一面もあったんだ、と発見。
「白樺派」を代表する作家であり、志賀直哉・柳宗悦といった芸術家との交流があることは今回、Wikipediaで始めて知った。理想主義的・空想社会主義的行動との表現が載っているが、今の自分にはそのレッテル貼りがどれだけのものかはわからない。現代にとっての作者の評価はどのようなものなのだろう?
「友情」は友人の妹に恋した主人公を、理解し応援してくれているはずの別の友人にその恋する女性を奪われてしまう話。そしてその友人の裏切りは書簡を公開する(雑誌に掲載)という形で主人公に告げられる。一見残酷なしうちだが、それは友人として、文学者としての良心であり、主人公はそこで裏切られた形の無二の友人に対し、仕事上で競い合おうと、文学の道を行くことを改めて決意する。それを「友情」、と作者は表現したかったのではなかろうか。
主人公が女性に恋していくさまや、最後は一方的な手紙を送りつけるようになり、途中のさまざまな心の揺れ動き、そして恋敵(と思い込んでしまう)に対する敵対心やうまくいかないとこには友人の理解をしきりに求めるところなど、今でいえばストーカーに近いのではないかと思ってしまうほど、主人公の心の動きがつづられていて、正直言って食傷気味。
若い感性ならばこのような恋愛感情には共感もできるところもあると思うが、今の自分はちょっと遠ざけたい感じ。こんなことを書くのも自分がすでに「おじさん」なのだろう。
「桃源にて」は戯曲として書かれていて、まだ客観的に読める気がする。
「愛と死」は二人の愛が突如、女性の死によって断ち切られてしまう悲劇。その間の手紙のやりとりは、いまどきの「ラブレター」や、メールでのやり取りとは比較にならない愛の言葉でちりばめられたもの。こちらも読んでてちょっと、という感じになるが、主人公が「21年前の話」として語っているので突き放して見れる分、すこし冷静に見ることができる。
悲劇の後の主人公が新しい恋をしたのか、結婚したのか、家族はできたのか、何にも書いていない分、21年後の「自分」がどうなっているか、そこは読む方がそれぞれの受け止め方でいいんだろうなあ。
結構挌闘して読んだ、といった読後感であった。
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