2016年11月10日木曜日

知覧~若き特攻隊員の悲劇~ 中学生の本棚9(1970年)

東京裁判・靖国神社・大東亜共栄圏・GHQ・3・11空襲・ヒロシマ・ナガサキ・・・
先の大戦に関して思い浮かぶ単語。

自分が出会ってきた戦争との接点を振り返ってみると・・・

小学生はプラモデルが大好きだった。とくに田宮模型の1/700スケールの日本海軍の戦艦たち。
ウォーターラインシリーズという、海に浮かんだ喫水線から上をプラモで再現しているやつ。そんな戦艦・空母の名前を覚えるのが楽しかった時代。そして小学校3年生の時に始まった宇宙戦艦ヤマトはSF物だけれど、浮沈鑑といわれた大和の名前をよりポピュラーにしたアニメだった。
友人は戦闘機プラモを集めていたし、零戦の開発物語を学校の図書館で読んで、「堀越二郎」という名前も英雄的な名前として自分の頭には刻み込まれていた。

島根県に住んでいた母親からは原爆が落とされた日のことを聞いたことがある。
その日は南の空が夕焼けみたいにみえた、と言っていたような記憶があるのだけれど、いくら何でも島根県の海近くに住んでいた実家からは見えないだろうと思うのだが、本当のところどうだったのかはわからない。ただ、その日の印象が母親の心にも深く刻み込まれていたようだ。親戚が広島にも住んでいたことがあり、広島に行ったのは小学校6年の修学旅行の時だったけれど、平和公園を訪れたことは覚えている。

夏休みの8月6日、9日は小学生の時はなんとなく流れているテレビをみて、黙とうをしていたこともある。

そんな戦争と自分の接点。意図的に教え込まれる教育はなかったな。

「知覧」は特攻隊がそこから数多く、特に1945年の春以後の現場での実態を取材したもの、終戦後10年以上にわたって取材された遺族・当時の人々が今どのようにくらしているか、生生しい実態が描かれる。過度に感情的でないところが、何とか読み進められるが、その中に入り込んでいくことは単に戦争の残酷さを実感する、という感情以上に何か、抑え込めない矛盾の思い、歯がゆい思い、英霊に対する思い、さまざまに湧いてくる。生き残った人たちの様子、陸軍幹部たちの姿、10代の若者に国のために神となる、その犠牲精神を説き、矛盾を感じつつもどうしようもなく、あるいはそこに崇高な美を見出し出撃した魂たち。

「大本営発表~改竄・隠蔽・捏造の太平洋戦争」(幻冬舎新書)を読んだあとということもあるだろう。戦果があった・なかった、というよりそもそも特攻は志願により始まった、軍の正式な作戦(こんなのは作戦で取り上げられるはずもない)では無い、ということをどれだけ特攻兵たちは自覚していたか?勝利を前提にした作戦であるはずが、そこには国のために犠牲となるという価値観により勝利に向かって死にゆくという矛盾。

戦争反対、と殊更に叫ぶ方がおかしい~とかつでさだまさしがライブで云っていた言葉が今も自分の頭にこびりついて離れない。

歴史の事実・・・それは教訓として生かしていくしかない、というありふれた、しかし真実な結論にたどり着いた。