2016年9月20日火曜日

若きウェルテルの悩み・田園交響楽 ~ 中学生の本棚6(1970年)

「疾風怒濤」~ドイツ語の「シュトルム‐ウント‐ドラング」の訳語だ。18世紀後半の文学運動から始まり、のちのロマン主義へとつながっていく、とある。日本人がこの文学に触れたのは明治~大正時代だろうし、この訳語もその時代のものだから、100年くらいずれがあり、この訳語から受ける語感と当時のドイツの雰囲気とはかなり差があるのだろうと思う。
「疾風怒涛」といえば自分には、ベートーヴェンの第9・第4楽章の合唱歌詞であるシラーの「歓喜に寄す」が思いだされる。音楽的にはロマン主義の範疇に入り、シラーの詩も「ドイツ古典主義」に属するらしいが、第9に出会った高校時代から~「疾風怒涛」といえば~20代に至るまで、第9と強く結びついている。ベートーヴェンの生き様、「歓喜」の歌を最終楽章とした第9交響曲、「疾風怒涛」はそのイメージだった。
そのイメージで読み始めた「若きウェルテルの悩み」だったので、自分にとってはちょっと違和感を感じている。若き青年期の荒れ狂うような内面の葛藤、情感を描き出す世界には共感できるものがあるが、夫のいる女性を愛するがゆえに背徳的な主人公の葛藤~そして死を選ぶ主人公には、「歓喜に寄す」のイメージがすっかり覆ってしまうものだった。おそらく、自分が誤解していたのだろう。シラーの詩は「新古典主義」でいいのだ。「疾風怒濤」には常識や善悪を超えた世界を行き来する若き青年の激情を主題とした、秩序ある生命をも超える世界を描いたものなのだろう。それは、ときに背徳的、反権力的、破壊的なものをもたらすものになるのだ。当時、この小説を読んだ若者の間で自殺が流行したという。親ならば、「読ませたくない本」の範疇にはいるのではないか。
よみながら「え~?、中学生の本棚に、こんなのが入っててい~の?」と何度も思う自分は既におじさん、あるいは権力側? 道徳おしつけ? と云われてしまいそうだが、この小説はやはり危ういものを感じる。
文豪ゲーテ。翻訳とはいえ、ウェルテルの死に至る「愛」を描き出す文章はさすがで、運命に翻弄され、「死」に至る描写は、自分を「純愛」に生きた主人公と「勘違い」させてしまう力がある。確かに「愛」は「死」を超える力があるということは同意できる。しかし、あえて「勘違い」と言わせてもらう。これにはまると自殺する青年がいることも、わかる気がするが、決してそれはまことの「愛」ではなかろう。「愛」は「生命」を生み出すもので、「死」に直結するものではなかろう。「生命」と「死」は不可分ながらも、「死」ゆえに「生命」をどう生きるか、どよう「善く」生きるか、は人生の課題となるのだ。
ウェルテルはその「愛」を現実世界で実現できないことにより、「死」に至る。
かといって、彼が別の世界でその「愛」を全うできることはないだろう。悩みを残したまま、痛ましい魂は救われるのか。それは仏教でいう地獄・煉獄の世界ではないのか。~多くの人の愛が冷えるであろう~聖句を思い出す。
「田園交響楽」は、時代こそ違えど、テーマはやはり死に至る愛憎劇であり、随所に聖句がでてくる。というより厳格なカトリックの家庭に生まれたジイドは聖句の一節こそがテーマになってこの物語を綴る。こちらの時代は近代に入ってくるが、やはり「愛」の根源を読者に問う。 信仰が入ってくるので、さらにテーマは深くなるが、こちらについてはまた別途考えてみたい。