2016年10月1日土曜日

鼻・羅生門 ~ 学研・中学生の本棚7(1970年)

中学生の本棚7巻目は、芥川龍之介短編集。
収録小説は、父/蜘蛛の糸/杜子春/魔術/鼻/羅生門/芋粥/奉教人の死/地獄変/河童/或阿呆の一生の11編。「父」から「魔術」あたりまでは中学か、高校のときに読んだ記憶がある。なので、自分の中の芥川イメージはずっとそのあたりで止まっている。特に「蜘蛛の糸」、「杜子春」は教科書にも取り上げられていたので、自分なりには読み込んでいたし、古典の説話や中国古典から取られた物語は短編ということもあり、話もすんなり心に入ってきて読みやすい。

芥川龍之介が35歳で自殺したということはこの本で知っていたのだろうか。このシリーズの巻末に載る写真は見た覚えがある。作者による河童の絵も見た記憶があり、自分の芥川龍之介のイメージはこのあたりでできあがったものだ。


「河童」、「或阿呆の一生」といった、晩年期の作品を今回読んでみてそのイメージが大きく変わった。とくに「地獄変」は、その前に取り上げられている「奉教人の死」と強いコントラストをなしていて、こういう題材、描写を追求していくことができる芥川龍之介はやはり芥川賞に名が残る作家としてふさわしい天才性があると同時に、破滅に至る狂気性もどこかに漂ってくるものを感じる。

「地獄変」は読みながら、1993年の韓国映画、「風の丘を越えて/西便制」を思い出した。まだ韓流ブームの前に作られたこの映画、娘(たしか、義理の娘だったと思う)を盲目にさせてまでパンソリの「恨」の世界を表現・追求する父親の世界は、芸術至上主義的なこの話に通じるものがある。ただ、「地獄変」は地獄絵の完成のために娘の命を犠牲にするという狂気、芸術至上主義とひとことで言うが、これは狂気としか言いようがない世界であり、そういう世界を書くという芥川の狂気性がそこにある。
杜子春で示した親子の情の世界から芸術のために娘を焼き殺すというところに変貌して行く様を一人の作家が描く、それは自殺へと自分を追い込んでいく道であるようすら感じる。


主人公が描こうとする地獄変の屏風絵。その完成のために娘を焼き殺し、描写するという地獄世界。その絵を所望したのが娘を奪っていった大殿であり、絵の完成のためにその大殿の乗る檳榔毛の車とともに娘が焼き殺される場を見てこそその絵が完成するという主人公の狂気の願い。

こういう作品を書き上げられるということ自体、芥川龍之介の狂気の始まりではなかったろうか。

前回も書いたが、「中学生の本棚」として取り上げる作品として本当いいのかなあ? 小説は小説、として客観視して読める姿勢はある程度読書経験・人生経験を積んだ後でないと、思春期に読ませるにはやっぱり考え物じゃないのかなあ、と思ってしまいます。
この本に読書感想文を載せている中学生たちには本当に脱帽します。だけど、はたして大人になっての読書人生がどうなっていったのか、ちょっと他人事ながら心配してしまうのです。


今の中学の先生たちもこうした読書指導をするのかしらん?

いつも思うけど、この年になってわかる世界があり、人生経験を積む少年・青年過程ではふさわしい読書というものがあるのではないか・・。

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